昭和44年 9月21日 朝
御理解第89節 「此の方の道は、傘1本で開くことができる」
此の方の道は傘一本で開くことができる。お道の布教という、お道の道開きという、お道と申しますが、これは神様がいよいよ求めておられる、道なのです。神様がいよいよ喜んで下さる道なのです。此の方の道と。
神様が難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれという、神の願いというものを金光大神が受けられて、そのことを取り次ぎ開始、お取次ぎを開始された、始められた。そういう道なのです。
いわば、お取次ぎの道とこう。此の方の道というのは、だから、傘一本で開くことができられたのです。今日はそこのへんのところをよく頂いていきたいと思います。
これは簡単におかげが受けられるというような、意味ではないと思うんですね。簡単におかげを頂いた、金光様の信心はもう傘一本でおかげを頂ける、といったような意味ではないと思う。此の方の道はと説かれてある。
此の方の道はというのは、どういうことかというと、取次ぎ助けられる道だと、取り次ぎ助ける道だと、そういうことは、なら神様がそういう取り次ぎを、金光大神にお頼みになって、お願いになって、世間になんぼうも氏子あり、取次ぎ助けてやってくれというご依頼があった。
お頼みを、それを素直にお受けられて、ね、それをまた真一途で、えー、そのことを開始された。開始された、道開きを始められた。ね、だから、その私は傘一本で開くことができるんだと。神様が一番求めてござることだから。
ね、神様が一番、喜びくださることだから、私は傘一本で開くことができるんだと、こう思います。そこで、ここで私どもが本当に分からなくてはならないことは、私どもが、おかげを頂いていける、おかげの道を開いて行くにいたしましても、ね、おかげの道をだんだん開いていくにいたしましても、それはどこまでも、神様が求めておられるおかげでなからなければならない。
神様がお喜びくださるところの、おかげでなからなければならんことが分かりますね。此の方の道は、傘、簡単に開ける。必ず開ける。そういう内容がここにあるんだと思いますよね。傘一本で開くことができるっていうことは。
もうおかげを絶対ぞと、必ず開ける、また開くことができる。けれどもそれは、どこまでも神様が求めてござる、おかげでなからなければならない。神様が喜んで下さるおかげでなからなければならない。
ここんところを金光様の信心は、そこんところを踏まえての信心でなからなければならない。ね、そこんところを願っての信心、そこからです、私は金光教の信心の、本当の信心の「安心?」というのはそこからしか出てこないと思う。
ね、家庭が円満になっていることも、経済的なおかげ、お繰り合わせを頂くことも、健康のおかげを頂くということも、ね、そこに私はつながりをもった、ものでなからなければならないということを、まず心に置いておかなければいけません。
どうぞ今日も、商売繁盛いたしますようにとお取次ぎを願え、それでいいのです。でも、そのお取り次ぎを願う者の内容なん。お商売の繁盛のおかげを頂きますように、ね、どうぞ健康になりますように、また健康でありますようにという、その願いでいいのですけれども、それはどこまでも、神様が求めたもう、神様が求めておいでられる、芯にそわなければいけん。
そのへんのところをみなさん、工夫しなさらないけんと思うんですね。私が商売繁盛願うておるが、身体の健康を願うておるが、人間関係のいわゆる家庭円満を願っておるが、ただ家庭が円満になったというのではいけんのである。ただ商売が繁盛したというのではいけんのである。ただ健康になったというのではいけんのである。
ね、それが神様の求め給うもの。神様が喜んで下さるところにです、つながるものであるから、必ず開けるのである、また開くことができるのである。しかも、傘一本で開くことができるのである。
此の方の道は傘一本で開くことができる。ね、そこんところを、分かられたらね、そこんところを分かってから、そこで今度は、そういうふうにして、開かれていく道、そういうふうにして開かれたまた道。
まぁ、一番それが端的に、分からして頂くのは、布教のことですね、取り次ぎ、この教会をね、先生方が先生の資格を取られて、布教に出られますね、金光様の信心は初めから大きな教会を建てて、そこに行くといってようなのは、もう稀であります。
はじめの間は、ね、それこそよその家の四畳半一間を、六畳半一間を借りて、で、そこから人が助かっていこう。しかも、自分がお導きをしてもらったりするんじゃなくて、そこで一生懸命、えー、難儀な氏子が取り次ぎ助かることを願いにくることを、ただひたすら祈り、ひたすらそこんところを待っておるだけなんですから、もう本当に、えー、不安定なことはないですね。
不安定や、自分がどこかに困った人のところに行ってから、どうぞ金光さまの信心をしなさいと言うて、金光様の信心を説いていく、ならまだいくらか、あれなんですけれども、その、まぁー、六畳一間なら六畳一間を借りて、お神様を奉祭して、そく御結界設えて、御結界の前に座って、ずーっと、神様に難儀な氏子の取り次ぎ助けられることを願う。 もちろん看板ぐらいは上げてあります、何々布教所といったような。ね、誰かがそこに尋ねてこなければできん。救いを求めて、助けを求めて来る人がなからなできん。ね、救いを助けを求めてくる人がある。その人が取り次ぎによって助かる。
助かった喜びが、またその人が人に伝えるといったようなことから、だんだん布教所が教会になっていくような、働きがここから生まれてくるわけです。ね、実に純粋、人が助かるということだけに、ことのために命懸け。
いや神様が一番求めておられることのために命懸け。命懸けですよね。出て行かれるものですもの、たくさんの資本金を持っていかれるわけでもない、米をたくさん持っていくわけでもない、ね、布教に出るといや、別に米の一俵でも持って行かれたら、もうよかほうじゃ。
ね、その米一俵がもうしまえるところから、おかげが頂けれる。おかげがたっていったような例はたくさんあります。ね、それは、なぜそういうような危険な、考えてみると、ね、こんな不安定なことはないふうだけれども、ね、そこからおかげが頂けれると、神様を信じて、布教に出る。
ね、同時にです、ね、取次ぎ者の先生が、そのことを信じておかなければ布教になんか、出られしませんよ。同時そのことがですよ、そのことが神様が求め給うておられることだから。そのことが神様のお喜び下さることだから、それで道が開けるんです。
ね、そこんところを思って頂くと、分かるでしょうが。ね、神様を信ずるということと、その信じておる同時に例えば布教に出るということがです、神様が求めてござること、神様が喜んで下さることだから、傘一本で道が開けるんです。
六畳一間のいわば借り住まいのようの布教所がです、だんだん人が助かっていくことになり、そこから教会が設立されてくることになり、総代ができ信者がだんだんできてきて、先生、親先生と言われるようにだんだんなってくる。
ですから、これは実は布教のことでも申しましたが、一番分かるでしょうが、ね、今日、私が申しました、此の方の道は傘1本で開くことができる、という道。此の方の道というのは、ね、金光大神の御取次ぎの道なんです。此の方の道というのは。
ね、その、道がです、なぜ傘一本で開くことができたり、また開けるかというと、神様が求め給うておられること、神様が喜んで下さることだから開けるのです。金光大神にね、取り次ぎ助けてやってくれと、神の頼みだからなんです。
そこで私どもがです、ね、おかげを受けるということは、神の頼みを受けて立つというもんじゃないと、ということが分かります。ね、みんなが全部それぞれ布教に出るわけじゃないし、取次ぎ者になるわけじゃないんですけれども、おかげを受けるという意味においても同じことです。
傘一本で開けるようなおかげを受けるためにはです、ね、神様の頼みを受けて立つという信心。なら、神様は私ども一人ひとりに、どう頼んでござるかというとです、ね、金光大神には取り次ぎ助けてやってくれと言うておられる。私どもには、いよいよ信心しておかげを受けてくれよ、と言うておられる。
ね、ならその信心とは、どういうような、ただ拝むこと、参ることということじゃなくて、ね、そのおかげを受けるということでも、ね、此の方の道に通うておらなけばならない。通じておらなければならない。なら、此の方の道というのは、どういう道かというと、神様が、ね、願うておられる、求めておられる道。神様が喜んで下さる、おかげの頂けれる道。
だから、私どもおかげがその一線上に出てこなければですね、いけんです。だから、ここんところを一つ、しっかり私が今商売繁盛を願うておる。健康を願うておる。人間関係のことを願うておる。様々な難儀な問題のことを願うておるが、その願うておることは、此の方の道という、その此の方の道、道に「 」ておるか。
神様の求めておられることに、喜んでくださっておることにつながっておるかと、自分の願いというものを正していかにゃいけんのです。ね、だから、そこんところを私ども、願いの本質とでも申しましょうかね。
ね、金光様の信心の、いわゆる願いをみんな持っておりますが、願いの本質はどこにあるか。いうならば、神も助かり氏子も立ち行くというような、願いでなからなきゃならない。
ね、ただ神頼み的な、ただ自分がちょっと楽にならすりゃいい、自分の都合がよくならすりゃいい、という願いでは本当のことじゃないことが分かりますよ。ね、私がそこで、例をいわゆる布教者が、いわば裸一貫同様でです、ね、道を開かれる、そのことを申しました。ね。
それがなぜ、必ず布教者が布教に出ますとですね、道が開けてくるんです。それは神様を信じて出るからと同時にです、神様がそれを求めてござること、それを神様が喜んで下さることだから開けるんです。
ね、だから、この2つが必要。いかに神様が喜んで下さることだって、もともとござることだからといったって、布教に出る人自身が、その神様を信じることもできなかったらだめなん。
ね、それを信じる。しかも、そう信じる、そのことが神様が喜びを頂くこと、求めてござることだと、そこから、ね、布教所が教会になっていくというふうに、道が開けてくるわけなんです。
そこで、うんなら、そのことを私どもの上に頂きますとです、その布教者の精神といってようなものが、やはり必要なん。私どもが、大きなおかげの道を開いていこう、ということのためにはですね、大きなおかげを頂いていこうと思うためにはです、まず、神様を信ずるというところから、だんだんおかげが受けられることと同時に、ね、その私どもが、大きくおかげを頂いていく、そのおかげがです、ね、そういう大きなおかげが神様の求めたもうところの、おかげにつながっておるということにならなければ、いわゆる、いよいよ代勝り的なおかげにはなっていかないわけです。
大事なところですよねここは。そこで、皆さんの願いというものがです、まぁいうならば、神様が求め給うところの「 二代? 」、神様がお喜び下さるところのできれる、おかげを目指して、信心のけいこをしておられる、また必ずおかげが頂けれると、それを神様を信じて皆さんが信心のけいこをしておられると、いたします。皆さん、そうじゃなからないけませんのです。
ですから、そうであるといたします。いうならば布教所から教会になった、信者もだんだん増えておかげを頂いたと、それは神様が求め給うことであるから、そこまでおかげを頂いたらです、ね、ところがそこからです、一歩も前の方に前進もしなければ、例えば信者が50人なら、50人できたら、その50人から減りもしなければ、「 」というごたぁで、ずーっとその教会があるとするなら、これはおかしいね。
おかげがそこに止まったとうするなら、それはおかしいですね。いや、またそのおかげだんだん減っていくっていうか、「 うす細? 」になっていくとするなら、これまたおかしいですね。
私は、それから先のことを、私は一つ、今日は一言分かって頂きたいと思うて、今、傘一本で開ける道を、今そのようにいろいろな説明をいたしましたわけです。いいですか、例えば皆さんが布教に出た、その布教に出たら必ず教会になることができるほどしに、おかげが受けられる道なんだ、それは神様が求め給う、神様が喜んで下さることだからなのだ。
同時におかげが受けられると信じておるからなのだ。先生、いわば皆さんが。ね、皆さんが願ってあるその願いがです、神様の願いにつながっておる、神様が喜んで下さることにつながっておるという、私は今日は、思う仮定してお話をしておる。
ですから、そのおかげが絶対なんだ。皆さんがおかげを受けられると信じておられることも、私は通して、今日はお話をしておる。ですから、必ずそこに、なら教会ができるように皆さんの願いを成就すると、必ず。
ところが、その成就したそこからがです、例えば、傘一本で開くことができる道というようにです、その些細な小さい、傘一本で開ける道であると同時に、今度は傘1本で、反対にそれが破壊されてしまうと言うか、潰れてしまうというか、おしまいになってしまうということも言えるということなんです。それを逆に頂けばね。生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだことなしと。
昨日、総会を熊本の、あー、阿蘇山で開かせて頂きました。100名余りの方が、あすこへ参りまして、あのー、草千里ですかね、で、もう本当に、本当に天地が自由になられるなぁと、あそこでテント張ってといっておりましたところが、テントが張ることができないということになった。
ところが、テントを他にどこか持ってかなんじゃろうか、と言うておるうちにですね、もう、うーっと雲ってきたんです。雲が低くたれてきたわけですね。そして、いわば、その、それこそ自然のテントを張っていただいたような、中で総会を開くことができた。
本当に天地が自由になる、と仰るが、本当にそうだと。あちらから、阿蘇山の噴煙が上がっておる方向を向かって、みんなで御祈念をさして頂きましたが、もう本当に感動で大祓いがあがらないくらい感動した。
あの、凄まじいまでの、あの地鳴りとでも申しますかね、若い紅蓮の炎をそれこそ巻きながら、あー、燃え上がっていく、しかもそれが、もうそれこそ何千年あのようにして、燃えつづけているか分からないという、それこそ大変な、あー、情景を目の当たりに見せて頂いたらです、本当に神様があのように凄まじいまでに、氏子助かってくれよ、と絶叫しておられる姿が目の前にあるような感じがいたします。なるほど天地が生きてござるな、ということを目の前に見ることができる感じでありました。
ね、天地が生きてござるしるしなんですよ。鳴動しつづけておる。いつ爆発するか分からん。ね、いわゆる生き火山。生きた火山。ね、金光様の信心はそういう生き火山のような、いわば神様を対象としての信心なんです。
ね、ですから、その神様の心に添うことであるからおかげになる。それを信ずるからおかげになるのである。電気工夫の方達が、生の電線が扱えられなかったら、一人前ではないと言われておる。
素人はとても扱えはできませんよね。ゴムの手袋はめたり、なんか色々するんでしょうけれども、それを生に扱うことができる、なかければ1人前じゃないとさえ、いわれるそうですが、です。
私は、そういう生きた神様を生に、直に心に感じておるおかげが、あいがたいなぁということなんです。ですから、それがひとつだから、ありがたいならまちごうたら、もうそのまま焦がれ死ぬというですか、危険になりかねないのです。
傘一本で開けるかわりに、傘一本でまたひっくり返ってしまうという道なのです。ね、そこで、今日、私は傘一本で開けるというこの道を、それに道を付けさせて頂いたわけですけど、色々お話ししましたですね。
だからおかげは絶対だと、それは神様が求め給うてあられることであるからだ。また、神様、私どもがそれを信じておるからだと、そしてそこに、ある一定のおかげを受けた。ね、そういう教会ができた、けれども、そこから一歩も前に前進もしなければ、後退もしない、いやだんだん衰微していくというような教会があるのは、どういうわけなのかと。これは教会だけではない、自分達のおかげの上においても、同じことがいえるのだと。
それはどういうことかというと、神様を甘く見るようになるからだということです。その生の電気を甘く見るから、やはり感電死してしまうのです。ね、いわゆる自惚れるからです。
私ども信心さしてもらう者のうえにですね、そういう例えば、素晴らしい生きた神様を私どもが知ったならばです。その神様をね、甘く見ることない信心。ね、または自分としては、ね、自惚れてはならない。
そのようなことを私は、まっ、その、頂いて、ね、そこに自惚れたり、慢心が出たり、ね、熱意がなくなったり、甘く見たり、するところから、その生きた働きというのはピタッと止まってしまう。
ね、教会に動きがなくなった。ね、活動しなくなった。いうならば、死火山と同じことのような、形だけのことになった。ね、そういうことでは、せっかくのおかげがもったいないでしょう。
合楽でも、そういうふうな人がいくらもあります。信心はまだ続けております。熱意を持って信心しよったのが、ある程度のところまでおかげ頂いたら、ピシャッと止まってしまうと、そして、おかげだけは忘れません。神様のご恩だけは忘れません、という程度の信心です。
ね、私は金光様の信心のどこまでもどこまでも、神様の求め給うおかげというものですから、ね、それがだんだん、だんだん日勝り月勝り、年勝り代勝りというようにですね、繁盛していかなければ、広がっていかなければ、生きた神様を頂いとうってことは言えない。
そういうほど、頂いていくために、今日、私が申しましたことを一つ、肝に銘じとって頂きたいと思うのでございます。どうぞ
佐田與一郎